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コラム

千里ニュータウンを生み出した村たち

千里ニュータウンになる前の千里丘陵は、どのような様子だったのでしょうか?もう半世紀以上前のことで、あまりにも短期間に激しく変貌したため想像がつかない…という方も多いと思いますが、そこにはきめ細かく手入れされた里山と近郊農村が広がっていました。

千里ニュータウンに土地を提供したのは、吹田市側では山田村、佐井寺村など。豊中市側は新田村など。竹林、雑木林に、谷筋は水田などが入り込み、水の便が悪かったため、大小無数の溜め池が造られていました(このうち大きなものは残されて、ニュータウンの公園に変身しています)。

農作物の中で有名だったのは「タケノコ」で、今やすっかり原風景のように思われている竹林も、実はタケノコを採るために明治以降、竹林化されたものだといいます。桃山台という地名にもなっている「桃」も特産品でしたが、病害のために早く姿を消しました。

ニュータウン計画に際しては速く住宅供給を進めるために既存集落はできるだけ買収せず、山林・田畑の部分だけを造成することとしましたが、この結果、ニュータウンの真ん中に上新田の集落部分が穴をあけたように残る形となりました。村の人たちにとっては暮らしも仕事もすっかり変わってしまう重大事で、「住宅不足の解消に協力するため」という大義名分はありながら、その葛藤は大変大きなものでした。

ニュータウンの開発と70年万博の開催によって、交通網などのインフラも一挙に整備されましたが、開発の波はこれらの既存集落にもにじみ出し、より新しい町や建物が立地するようになりました。この半世紀の「人口増加の圧力」は、それほど大きかったのです。

変化が速いということは、それだけ千里丘陵が都市から近い場所にあり、利用価値の高い場所にあるということです。立地条件はずっと変わらないのです。その中でライフスタイルも大きく変わりましたが、吹田市立博物館では「ほんの少し昔の」暮らしの道具を見ることができます。

ニュータウン着工当時の村の様子 1961(記録映画「ひらけゆく千里丘陵計画篇」より)

提供:大阪府

山田村は万博にも土地を提供し、墓地の移動なども行われた 1967

撮影:野口昭雄

上新田は昔からのお屋敷とマンションが同居している 2010

撮影:奥居武