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コラム

奇跡の千里丘陵

千里丘陵は昔も今も大阪都心から北へ約15キロ。京阪神を結んだ三角の真ん中にあり、とても便利な場所です。ニュータウンができる前は、山田、上新田、春日、佐井寺、熊野田などの地名に属する、のどかな近郊農村でした。

そこは決して未開の原野ではなく、農家の人たちによってきめ細かく整備された里山的な環境でした。当時の地図や航空写真には、月のクレーターのようにいっぱい、大小の農業用のため池が見られます。千里の原風景のように思われている竹林さえ、タケノコを取って生活するために、人為的に雑木林から転換されたといわれています。桃も栽培されていました。今のニュータウンの佐竹台、竹見台、桃山台といった町名は、その名産をアレンジしてつけられたものです。

中には軍用地や、ゴルフ場や、1934年に大阪市内から移転してきた弘済院などもありました。鉄道も広い道路もなく、今よりはるかに交通は不便でしたが、国鉄の吹田駅や阪急の豊中駅からはバスでアクセスできました。

しかしそんな場所が、戦後まで開発が遅れて残っていたのは、なぜでしょう?水の便が悪かったために、水田に向かなかった。大阪から鬼門の方角にあたるので積極的に利用されなかった…という説があります。ここに大阪府が着目し、戦後の高度経済成長による急激な住宅ニーズの増加にこたえるため、日本初の本格的な「ニュータウン」が計画されました。そのベースには、大阪府だからできた「上下水道の整備」がありました。

町の開発にとって重要なことは建物だけでなく、水道、電気、ガス、道路、鉄道といった「インフラ」をまず造らなくてはなりません。地主さんから土地を売っていただく交渉も、大変なことでした。開発エリアの中で上新田の集落エリアには200戸を超える集落がありましたが、全体の開発スピードを重視してこの一角は除外地として残されました。

わずか10年あまりの間に千里丘陵は、最先端の計画都市「ニュータウン」に一挙に姿を変えました。それは高度経済成長を象徴する変身でした。ニュータウン開発直前や初期の様子は、南千里駅前の吹田市立千里ニュータウン情報館で映像が見られます。

ニュータウン開発前の千里丘陵(弘済院あたり) 1955

ニュータウン開発前の千里丘陵(弘済院あたり)

撮影:野口昭雄、提供:吹田市立博物館

現在の北消防署、あいほうぷ前を歩く農作業車 1956

現在の北消防署、あいほうぷ前あたりを歩く農作業車

撮影:野口昭雄、提供:吹田市立博物館

大阪府企業局による千里ニュータウンの計画検討 1961(記録映画「ひらけゆく千里丘陵計画篇」より)

大阪府企業局による千里ニュータウンの計画検討

提供:大阪府

造成地に姿を現した佐竹台(右)、高野台(左) 1962

造成地に姿を現した佐竹台(右)、高野台(左)

提供:大阪府