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コラム

あこがれの団地生活

千里ニュータウンと言えば、団地(集合住宅)のメッカ。実際には、住宅地の面積は戸建と団地が半々ですが、1970年完成当時の戸数では約83%※が団地でしたから、そう思われるのも無理はありません。

日本では第二次世界大戦で大量の住宅を失い、また戦後のベビーブームと高度経済成長によって都市部への人口集中が起き、首都圏や関西では深刻な住宅不足に悩んでいました。この問題を解決するために、1955年には日本住宅公団が設立され、団地の建設が本格的に始まりました。

バラックのような家に住んでいた人も多かった時代、鉄筋コンクリートにステンレスのキッチン、水洗トイレなどを備えた団地は、庶民のあこがれの的でした。その入居申込には大勢の人が殺到し、抽選で何度も外れては再チャレンジする光景はあたりまえでした。戦争の記憶もまだ生々しかった時代、木造の平屋が密集した町並みから、十分なオープンスペースや緑地を取った「燃えない」まちづくりは、最先端の都市計画でもありました。

初期の団地は2階建のテラスハウスなど低層のものも造られましたが、建てても建てても家が足りない状況に、しだいに高層化し、団地の規模も大きくなっていきました。そうなると、住宅を造るだけではなく、商店や、学校や、上下水道、交通インフラなど、総合的なまちづくりが求められるようになり、「ニュータウン」の計画へと発展していったのです。

千里ニュータウンの団地は、大きく4つのグループに分けられ、各住棟には、A=府住宅供給公社、B=府営住宅、C=日本住宅公団、D=社宅などその他…の記号がつけられました。似たような外観の棟がずらりと並んでいたために、子供が学校の帰りに迷子になったり、酔っ払ったお父さんがよその家に上がり込んで寝てしまう…ということも起きました。

それでも団地の人たちは「あこがれの暮らし」を手に入れた仲間として、協力しあってコミュニティを作っていったのです。

※出典『千里ニュータウンの建設』大阪府 1970

出来上がったばかりのぴかぴかの府営住宅 1962(記録映画「ひらけゆく千里丘陵建設篇」より)

ぴかぴかの府営住宅 1962

提供:大阪府

あこがれのステンレスキッチン 1965頃

あこがれのステンレスキッチン 1965頃

団地の集会室で行われた絵画教室 1975

団地の集会室で行われた絵画教室 1975

撮影:永井俊雄