COLUMNS
コラム
万博とニュータウン
千里丘陵で有名なものは、千里ニュータウンと、1970年の日本万国博覧会(通称:大阪万博)でしょう。会期:183日。入場者数:約6422万人。世界史上最大級のイベントでした。
ときどき「万博の跡地に千里ニュータウンが造られた」と思っている人がいますが、それは違います。ニュータウンと万博はお隣で、別のプロジェクト。万博の開催が決定した1965年には、ニュータウンはもう入居が進んでいました。千里ニュータウンは大阪府によって、万博は国によって計画が進められました。万博会場の跡地は今、大半が万博記念公園になり、一部は大阪大学の吹田キャンパスに繰り入れられています。
お隣でしたが両者には密接な関係があり、竹見台、新千里東町には、万博で働く外国人の宿舎が造られました。新御堂筋や中央環状線、北大阪急行といった交通インフラも、万博の開会に合わせて整備されました。万博と千里ニュータウンは「双児の未来都市」だったとも評されています(五十嵐太郎氏)。万博は「月の石」など手が届かないほどの遠い未来を見せてくれましたが、ニュータウンは、実際に中に住める実用的な未来を体験させてくれました。前者は半年で魔法のように消えましたが、ニュータウンは以来半世紀、存続している未来都市の「実証実験の場」だと言ってもいいでしょう。
万博のチケットには「会場=大阪千里丘陵」と刷り込まれ、「千里」の名は一躍日本中に有名になりました。それは町のイメージを決定的にはなやかなものにしました。
今でも千里ニュータウンからは「太陽の塔」が眺められます。万博記念公園の広大な緑は、万博終了後に植栽された「人工の森」で、自然創出の実験場となっています。ニュータウンの中は緑が豊かなことで知られていますが、その隣にも大きな庭があるようなものです。
2025年の関西・大阪万博は湾岸の夢洲で開かれますが、「万博レガシー」とはいったいどのようなものか、一番よく知っているのは千里の人たちではないでしょうか。
中央環状線上を走っていた北大阪急行会場線 1970
撮影:野口昭雄、提供:吹田市立博物館
千里ニュータウンから見た夕映えの万博会場 1970
今でも千里ニュータウンからは太陽の塔が望める 2006
撮影:奥居武